波琉太は先月、1月17日に亡くなり22日にお空に昇っていきました。
その5日間のお話は→「波琉太と最後の5日間」2024.2.23
先代の子もそうだったのですが、
火葬は出張タイプの葬儀を頼みました。
霊園に行って、お坊さんのお経があってというのが私には馴染めず、
もっと自然に、遠くには行かず知っている場所でという気持ちからです。
先代の子の時代からすると、業者もシステムもとても進化していて、
予約を入れる時や場所の相談など、親切で思いやりの感じられる対応でした。
当日はスタッフお2人で来られ、お別れの時間も急かされることなく、
気持ちよく送ることができました。
こんな時不愉快な思いをするのが一番辛いですから、
そうでなかったことが何よりでした。
病院で箱のお棺に入れてもらいましたが、
色々一緒に焼くのは良くないので、そこから出して、
よく食べてた物も、焼き芋とクッキーを少しだけにしました。
せめてもと、体にバスタオルをかけることだけはOKしてもらいました。そのタオル、水色だったのがすっかり色あせています。
息子が生まれた時に買ったもので、その後アレ君と波琉太と使って、
天国に行くのに守ってもらえるようにと思って。
業者さんからはお供として折り鶴と、腕には小さな数珠をはめてもらいました。
遺影です。私のスマホの待ち受けもこれで、
買い替えたプリンターの一番最初のプリントになりました。
・右頬の太き1本目立ちたる形見ひげ抜くハルごめんなと
・Rくんの40年来タオルかけハル送り出す旅路守れと
・最後にはハル、バイバイと手を振って君と同じに別れを告げん
・風下でハルの一番濃いとこをわが体内に吸い込む火葬車
・君よりも少しよく焼け誇りたるハルの頭のてっぺんの骨
・この骨はどこと言いつつR君とハルの全部を壺へと納め
・わが人生全てがハルを中心に笑顔見てたよ楽しかったよ
・寒き朝ハルもいなくてつまらない面白くない日が今日も始まる
お骨はあの仏さんの生地でなくて、シフォンのような生地の袋に入って戻ってきました。
また、こちらもアレクサンダーの骨のように、
手元に置いておきます。
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2024年02月27日
2024年02月23日
波琉太と最後の5日間
波琉太が亡くなってから火葬するまで、
5日間を一緒に過ごしました。
こうやって穏やかに寝ている波琉太と一緒に。
5日間も一緒にいていいんだと思ったのは、
少し前にSNSで長く一緒にいた方の話を読んだからです。
決まりはないわけで、自分の納得がいくまでそばにいさせようと思いました。
昼間はエアコンから一番遠い場所に、
寝る時はいつも寝ていた部屋に、波琉太を引きずっていき、
いつも話しかけながら、いつも見ていながら過ごしました。
反応はないけど、それも波琉太の通常運転で、
ただゆっくり寝ているだけにしか見えないから、
亡くなってはいても私の心は穏やかでした。
だんだん体が冷たくなっていきましたが、最後まで暖かだったのはお腹でした。
亡くなると脳や周辺の細胞から速やかに死滅していきますが、
お腹、腎臓なんかも丸1日くらいは細胞は生きているらしいです。
(私のかかりつけ医の話から)
だからお腹が最後まで暖かだったのでしょう。
面白かったこと。
脱力するとおしっこもうんちも出てしまいますが、
お腹のガスとかに押し出されたのかも、
翌日、なんか臭いなと思ったら普通にうんちが出ていました。
生きてるみたいで、なんだか嬉しくてきれいに拭いてやりました。
その時少し出血していました。
でも、鼻や口からは出血はなく、きれいなお顔をしていました。
どうしても目を閉じてしまえなくて、最後まで薄く目を開けていた状態で、
だんだん目玉がブヨブヨとしていくのもわかりました。
火葬する前、涙みたいに潤んでいたのをふき取ったガーゼタオルは、
そのまま置いてあります。
横向きでいたせいで、時が経つとだんだん上になってる方の唇が下がってきました。
ぷっくり唇がかわいかったので、
コットンをいれてぷっくりさせました。
時が経つにつれ冷たさや硬さは変わらなかったけれど、
皮膚の色がさすがに悪くなっていったように思います。
幸い冬で腐敗もせず、
保冷剤を入れてはいましたがきれいなままずっとそばにいられました。
亡くなったのは水曜日でしたが、
火葬を週明けと決めたのは金曜日だったでしょうか。
ずっとそのままいてほしかった、形がないのは拠りどころがないのは辛いです。
・ゆっくりとご飯食べてもよくなりてハルじっと寝て待っているから
・もう全部全部己の空き時間いつどこへでも行けるが寂し
・起きているハルも布団に乗せたまま引きずってたなちと軽かったな
・横向きにハルは休息むさぼりて初めて真に楽に見えたり
・寝るハルの様子伺い父さんはニャーと呼びかけ来ぬ返事待つ
こんな顔をして、いつも私の横で寝ていました。
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5日間を一緒に過ごしました。
こうやって穏やかに寝ている波琉太と一緒に。
5日間も一緒にいていいんだと思ったのは、
少し前にSNSで長く一緒にいた方の話を読んだからです。
決まりはないわけで、自分の納得がいくまでそばにいさせようと思いました。
昼間はエアコンから一番遠い場所に、
寝る時はいつも寝ていた部屋に、波琉太を引きずっていき、
いつも話しかけながら、いつも見ていながら過ごしました。
反応はないけど、それも波琉太の通常運転で、
ただゆっくり寝ているだけにしか見えないから、
亡くなってはいても私の心は穏やかでした。
だんだん体が冷たくなっていきましたが、最後まで暖かだったのはお腹でした。
亡くなると脳や周辺の細胞から速やかに死滅していきますが、
お腹、腎臓なんかも丸1日くらいは細胞は生きているらしいです。
(私のかかりつけ医の話から)
だからお腹が最後まで暖かだったのでしょう。
面白かったこと。
脱力するとおしっこもうんちも出てしまいますが、
お腹のガスとかに押し出されたのかも、
翌日、なんか臭いなと思ったら普通にうんちが出ていました。
生きてるみたいで、なんだか嬉しくてきれいに拭いてやりました。
その時少し出血していました。
でも、鼻や口からは出血はなく、きれいなお顔をしていました。
どうしても目を閉じてしまえなくて、最後まで薄く目を開けていた状態で、
だんだん目玉がブヨブヨとしていくのもわかりました。
火葬する前、涙みたいに潤んでいたのをふき取ったガーゼタオルは、
そのまま置いてあります。
横向きでいたせいで、時が経つとだんだん上になってる方の唇が下がってきました。
ぷっくり唇がかわいかったので、
コットンをいれてぷっくりさせました。
時が経つにつれ冷たさや硬さは変わらなかったけれど、
皮膚の色がさすがに悪くなっていったように思います。
幸い冬で腐敗もせず、
保冷剤を入れてはいましたがきれいなままずっとそばにいられました。
亡くなったのは水曜日でしたが、
火葬を週明けと決めたのは金曜日だったでしょうか。
ずっとそのままいてほしかった、形がないのは拠りどころがないのは辛いです。
・ゆっくりとご飯食べてもよくなりてハルじっと寝て待っているから
・もう全部全部己の空き時間いつどこへでも行けるが寂し
・起きているハルも布団に乗せたまま引きずってたなちと軽かったな
・横向きにハルは休息むさぼりて初めて真に楽に見えたり
・寝るハルの様子伺い父さんはニャーと呼びかけ来ぬ返事待つ
こんな顔をして、いつも私の横で寝ていました。
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2024年01月22日
やはり奇跡の子だった
本日10時より、波琉太を送ります。
長いこと私のそばで眠っていてくれました。
永遠とはいかないから、そろそろ天国で目を覚ましてもらわないと。
昨日、孫兄君がお別れに来てくれました。
自分で来たいと言ったそうです。
前日にお手紙も書いて用意していたそうです。
孫妹ちゃんは小さいので絵を描いてくれました。
実は私、お手紙書いてとお願いしようかと思っていました。
でもそんなことは無理強いするものではありません。
ところが孫兄君は自らの意志で実行してくれました。
これまで何度も書きましたが、
波琉太のことをせめて孫兄君には憶えていてほしい、というのが願いでした。
孫兄君が憶えていられるようになるまでは生きててと。
どうやらそんなばあばの願いは叶うようです。
孫兄君には身近な初めての死です。
どうぞ命を大切に生きてちょうだいね。
昨日は雨のち晴れ、夕方は時おりぱらつくお天気でした。
息子たちが帰ろうと家の外に出ると、
大きな虹が出ていました。
これまで波琉太と見た虹の中で、一番大きなきれいな円を描いた虹、
しかも二重虹です。
奇跡と思いました。
虹が消える前、雲がなくなった空には月が出ていました。
雨が上がるのを待って散歩に出るから、
虹を見ることも多くて、
そんな時は波琉太と一緒に撮っていました。
幸運のしるしと思って、たくさん虹に祈ったものです。
昨日はありがとうとお礼を言いました。
・ウジのわく姿を見れば伊弉諾のごとくハルからわれも逃げるか
・最後まで暖かだったハルお腹お昼ご飯までを食べたね
・良かったハルは物にはならなくて冷たく硬くなりても愛し子
・穏やかに勇者は今日も寝ていますとても静かにわが願いどおり
・永遠にハルそばにいてほしいけどもう天国で目覚める時間か
・送る日の迫りし夕べ虹出でてその最後までハル奇跡の子
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長いこと私のそばで眠っていてくれました。
永遠とはいかないから、そろそろ天国で目を覚ましてもらわないと。
昨日、孫兄君がお別れに来てくれました。
自分で来たいと言ったそうです。
前日にお手紙も書いて用意していたそうです。
孫妹ちゃんは小さいので絵を描いてくれました。
実は私、お手紙書いてとお願いしようかと思っていました。
でもそんなことは無理強いするものではありません。
ところが孫兄君は自らの意志で実行してくれました。
これまで何度も書きましたが、
波琉太のことをせめて孫兄君には憶えていてほしい、というのが願いでした。
孫兄君が憶えていられるようになるまでは生きててと。
どうやらそんなばあばの願いは叶うようです。
孫兄君には身近な初めての死です。
どうぞ命を大切に生きてちょうだいね。
昨日は雨のち晴れ、夕方は時おりぱらつくお天気でした。
息子たちが帰ろうと家の外に出ると、
大きな虹が出ていました。
これまで波琉太と見た虹の中で、一番大きなきれいな円を描いた虹、
しかも二重虹です。
奇跡と思いました。
虹が消える前、雲がなくなった空には月が出ていました。
雨が上がるのを待って散歩に出るから、
虹を見ることも多くて、
そんな時は波琉太と一緒に撮っていました。
幸運のしるしと思って、たくさん虹に祈ったものです。
昨日はありがとうとお礼を言いました。
・ウジのわく姿を見れば伊弉諾のごとくハルからわれも逃げるか
・最後まで暖かだったハルお腹お昼ご飯までを食べたね
・良かったハルは物にはならなくて冷たく硬くなりても愛し子
・穏やかに勇者は今日も寝ていますとても静かにわが願いどおり
・永遠にハルそばにいてほしいけどもう天国で目覚める時間か
・送る日の迫りし夕べ虹出でてその最後までハル奇跡の子
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2024年01月21日
その時波琉太の呼吸が止まった
1月17日のことを書きます。
去年11月19日、ひどいけいれん発作を起こしてから約2か月、
お薬が効いたのか穏やかな日を過ごして、
ステロイドを減らすことにした矢先、
不安ではありました。
年明けて1月17日、朝5時半を過ぎた頃、けいれん発作を起こしました。
点鼻薬を注入しましたが、
15分後にはまた発作を起こし、今度は座薬を入れました。
しかし自分で体を支えることができず、
よだれや泡がたくさん出て、また喉がゼロゼロと鳴っている状態でした。
注射が必要と救急病院に電話したけれど、
時間内に行くことができないと断られ、他の病院を検索しているうち、
なんとか立てるようになり、
薬を飲ませないといけないので、
朝ごはんを食べさせました。
前日晩ごはんから少し食べるのを嫌がってはいましたが、
少し量を減らして薬も飲み、眠りにつくことができました。
前々日からお腹がぷっくり膨れて、💩の出もよくなくて、
食欲不振も消化不良なのかと思いました。
かかりつけ病院に診察の予約を入れて待つ間、
8時半を過ぎた頃、寝起きにまた発作を起こしました。
診察ではまず鎮静の注射をして、呼吸がしんどそうということでレントゲンを撮ると、
前に肺炎と言われた時よりももっと奥の方が白くなっていて、
前よりひどいという状況でしたが、
静脈の点滴をすると発作を誘発することが多いというので、
抗生剤を変え、家で酸素室を作ることにしました。
お腹が膨れているのも、胃腸の働きが悪いのだろうと、
その薬は体に点滴で入れました。
私は病院から酸素発生器の手配の電話をしていましたが、
診察室に戻ると、初めて目覚めている状態で波琉太が発作を起こし、
2本目の注射を打ちました。
しっかり体を支えることができなくなっていましたが、
なんとかそれで持ったので家に帰りました。
帰り道おやつを食べたので、持ち直したと思ったのですが。
酸素室を作るのは大変そうだし、息子に連絡すると来てくれることになりました。
この危機的な状態に息子がいてくれたら、
少しは波琉太も私も不安が紛れるかもと思ったのでした。
その時ははっきり意識してなかったけれど、
来てくれなかったら、弱った波琉太を前に正常ではいられなかったと思います。
家ではお薬を飲ませないといけないので、
昼ご飯を食べさせました。
またあんまり食欲はなかったけれど、用意した分は全部食べ、
寝にくそうでしたがウトウトして過ごしました。
息子が来てもはっきり認識できていたかどうかわからない状態でした。
酸素発生器の業者さんが来て説明を受けている時、
息子は波琉太と一緒にいて、撫でたり抱き締めたりしていたそうです。
息子が撮った最後の写真です。私と父さんがいないので、不安げに探していたそうです。
酸素室ができ、出入り口をどうしようと考えていましたが、
とりあえずゆっくり眠れたらと、酸素マスクみたいにして寝かしていました。
それから息子を電車の駅まで父さんが送りに行っている時、
夕方4時頃、波琉太はけいれん発作を起こし、すぐ私は注射を打ちました。
発作は完全には収まらず、耳がぴくぴく動いたり頭がときおりカクっと動いたり、
病院に電話をしたものの、もう一度注射を打つしか病院でも処置のしようがないと言われ、
とにかく飲み薬をと思ってご飯を食べさせようと思いました。
私は波琉太が死んでしまうなんて、
最後まで全く思っていませんでした。
晩ごはんは全く口にしようとせず、
そうしているうち最後の発作が起こりました。
4時50分ごろでしょうか、朝からだと6回目、初めて発作を起こしてから27回目でした。
体を寝かせたまま、舌を押さえつけて呼吸ができるようにしていた時、
発作が始まって1分も経っていたでしょうか、
ふと波琉太の動きが止まりました。
すぐ脈をみたのですが、こちらも触れることはありませんでした。
父さんが胸を押したり、息を吹き込んだりしましたが、
1回、ふと息をガッと吸って、それが最期でした。
波琉太は死んでしまったと思いました。
疑うことなく、もう逝ってしまったと、自分で逝ったのだと思いました。
自分の家で、いつもいるところで、私の好きな音楽の録画が流れている中で、
私と父さんがいて、それまでずっと私は笑顔で、
私の手に触れられている中で。
慌てて病院に電話しました。
呼吸をしていませんと。
蘇生してほしい、とは思わなかったと思います。
でも連れてきてくださいと言われ、主治医さんが会ってくださいました。
その時波琉太はこんな穏やかな顔をしていました。
主治医さんからは、去年初めて発作を起こした時点で、
MRIで腫瘍もみつかり、いつどうなるかはわかりませんと言われていました。
余命というのは言えない状態だったと思います。
この後すぐかもしれないし、もっと後かもしれない、
でも年は越せないかもしれない、越せないだろうと思われていたそうです。
ありがとうございます、年越せました。
予想を上回って、波琉太は生きました。
1月17日、関西の人間には特別な日、阪神淡路大震災の起こった日です。
この冬、波琉太地方では初めての雪が、朝、風に舞っていました。
2024年、奇しくも「令和6年能登半島地震」の起きた年、
ちなみに先代犬アレクサンダーが亡くなったのは「東日本大震災」の年。
波琉太とアレクサンダーに縁があったということなのかもしれません。
今、外は雨が降っています。
波琉太が亡くなった翌日も雨、雨で良かった、
お散歩に行かなくちゃって思わなくていいから。
波琉太は明日22日、お空に見送ります。
とても長くそばにいてくれましたが、永遠にいてもらうわけにもいかず、
その誇った体躯もなくなってしまいます。
ブログやInstagramのメッセージには、
天国には○○ちゃんいるよ、そんな言葉がありました。
新参者ですが、どうぞよろしくお願いします。
おとなしい、とてもいい子です。
・ハル発作起こした後はわが顔を不思議そうな目でじっと見つめて
・精一杯ハルとわれとは戦いて勝ち負けなしの満足もあり
・死に顔は安らかに見えハルは言うどうや僕の生き様見たか
・おとなしきハルなら寝姿そのままにエンバーミングさえもよぎりて
・元からに応えぬハルよ呼びかけて姿のあればそれでいいのに
・雨が好きキャラに戻りて薄暗き部屋にて雨音だけを聞いてる
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去年11月19日、ひどいけいれん発作を起こしてから約2か月、
お薬が効いたのか穏やかな日を過ごして、
ステロイドを減らすことにした矢先、
不安ではありました。
年明けて1月17日、朝5時半を過ぎた頃、けいれん発作を起こしました。
点鼻薬を注入しましたが、
15分後にはまた発作を起こし、今度は座薬を入れました。
しかし自分で体を支えることができず、
よだれや泡がたくさん出て、また喉がゼロゼロと鳴っている状態でした。
注射が必要と救急病院に電話したけれど、
時間内に行くことができないと断られ、他の病院を検索しているうち、
なんとか立てるようになり、
薬を飲ませないといけないので、
朝ごはんを食べさせました。
前日晩ごはんから少し食べるのを嫌がってはいましたが、
少し量を減らして薬も飲み、眠りにつくことができました。
前々日からお腹がぷっくり膨れて、💩の出もよくなくて、
食欲不振も消化不良なのかと思いました。
かかりつけ病院に診察の予約を入れて待つ間、
8時半を過ぎた頃、寝起きにまた発作を起こしました。
診察ではまず鎮静の注射をして、呼吸がしんどそうということでレントゲンを撮ると、
前に肺炎と言われた時よりももっと奥の方が白くなっていて、
前よりひどいという状況でしたが、
静脈の点滴をすると発作を誘発することが多いというので、
抗生剤を変え、家で酸素室を作ることにしました。
お腹が膨れているのも、胃腸の働きが悪いのだろうと、
その薬は体に点滴で入れました。
私は病院から酸素発生器の手配の電話をしていましたが、
診察室に戻ると、初めて目覚めている状態で波琉太が発作を起こし、
2本目の注射を打ちました。
しっかり体を支えることができなくなっていましたが、
なんとかそれで持ったので家に帰りました。
帰り道おやつを食べたので、持ち直したと思ったのですが。
酸素室を作るのは大変そうだし、息子に連絡すると来てくれることになりました。
この危機的な状態に息子がいてくれたら、
少しは波琉太も私も不安が紛れるかもと思ったのでした。
その時ははっきり意識してなかったけれど、
来てくれなかったら、弱った波琉太を前に正常ではいられなかったと思います。
家ではお薬を飲ませないといけないので、
昼ご飯を食べさせました。
またあんまり食欲はなかったけれど、用意した分は全部食べ、
寝にくそうでしたがウトウトして過ごしました。
息子が来てもはっきり認識できていたかどうかわからない状態でした。
酸素発生器の業者さんが来て説明を受けている時、
息子は波琉太と一緒にいて、撫でたり抱き締めたりしていたそうです。
息子が撮った最後の写真です。私と父さんがいないので、不安げに探していたそうです。
酸素室ができ、出入り口をどうしようと考えていましたが、
とりあえずゆっくり眠れたらと、酸素マスクみたいにして寝かしていました。
それから息子を電車の駅まで父さんが送りに行っている時、
夕方4時頃、波琉太はけいれん発作を起こし、すぐ私は注射を打ちました。
発作は完全には収まらず、耳がぴくぴく動いたり頭がときおりカクっと動いたり、
病院に電話をしたものの、もう一度注射を打つしか病院でも処置のしようがないと言われ、
とにかく飲み薬をと思ってご飯を食べさせようと思いました。
私は波琉太が死んでしまうなんて、
最後まで全く思っていませんでした。
晩ごはんは全く口にしようとせず、
そうしているうち最後の発作が起こりました。
4時50分ごろでしょうか、朝からだと6回目、初めて発作を起こしてから27回目でした。
体を寝かせたまま、舌を押さえつけて呼吸ができるようにしていた時、
発作が始まって1分も経っていたでしょうか、
ふと波琉太の動きが止まりました。
すぐ脈をみたのですが、こちらも触れることはありませんでした。
父さんが胸を押したり、息を吹き込んだりしましたが、
1回、ふと息をガッと吸って、それが最期でした。
波琉太は死んでしまったと思いました。
疑うことなく、もう逝ってしまったと、自分で逝ったのだと思いました。
自分の家で、いつもいるところで、私の好きな音楽の録画が流れている中で、
私と父さんがいて、それまでずっと私は笑顔で、
私の手に触れられている中で。
慌てて病院に電話しました。
呼吸をしていませんと。
蘇生してほしい、とは思わなかったと思います。
でも連れてきてくださいと言われ、主治医さんが会ってくださいました。
その時波琉太はこんな穏やかな顔をしていました。
主治医さんからは、去年初めて発作を起こした時点で、
MRIで腫瘍もみつかり、いつどうなるかはわかりませんと言われていました。
余命というのは言えない状態だったと思います。
この後すぐかもしれないし、もっと後かもしれない、
でも年は越せないかもしれない、越せないだろうと思われていたそうです。
ありがとうございます、年越せました。
予想を上回って、波琉太は生きました。
1月17日、関西の人間には特別な日、阪神淡路大震災の起こった日です。
この冬、波琉太地方では初めての雪が、朝、風に舞っていました。
2024年、奇しくも「令和6年能登半島地震」の起きた年、
ちなみに先代犬アレクサンダーが亡くなったのは「東日本大震災」の年。
波琉太とアレクサンダーに縁があったということなのかもしれません。
今、外は雨が降っています。
波琉太が亡くなった翌日も雨、雨で良かった、
お散歩に行かなくちゃって思わなくていいから。
波琉太は明日22日、お空に見送ります。
とても長くそばにいてくれましたが、永遠にいてもらうわけにもいかず、
その誇った体躯もなくなってしまいます。
ブログやInstagramのメッセージには、
天国には○○ちゃんいるよ、そんな言葉がありました。
新参者ですが、どうぞよろしくお願いします。
おとなしい、とてもいい子です。
・ハル発作起こした後はわが顔を不思議そうな目でじっと見つめて
・精一杯ハルとわれとは戦いて勝ち負けなしの満足もあり
・死に顔は安らかに見えハルは言うどうや僕の生き様見たか
・おとなしきハルなら寝姿そのままにエンバーミングさえもよぎりて
・元からに応えぬハルよ呼びかけて姿のあればそれでいいのに
・雨が好きキャラに戻りて薄暗き部屋にて雨音だけを聞いてる
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2024年01月19日
勇者波琉太は戦い抜きました
波琉太は1月17日、午後5時、
その日6回目のけいれん発作を起こした時、呼吸を止めました。
11年と8か月と25日の生涯でした。
夜明け前に約2か月ぶりの発作を起こして、
なんとか午前の診察まで待てたのですが、
今までは寝ている時にしか起こらなかった発作を、
診察中にも起こしました。
もう鎮静の注射も効かないほどになっていたのだと、今はわかります。
肺炎の症状も見られ、以前より範囲が広がっていましたが、
肺炎の治療薬が脳炎のために使えないため、
自宅に酸素室を作る手配をして、家に戻ってきました。
家では昼ご飯、食欲がなかったものの、お薬を飲ませるため、
口にもっていくと、用意した全量を食べて、
その後は息子が来たこともあって起きて過ごしていました。
酸素発生器はすぐに届き、ケージをビニールで囲って部屋は作ったのですが、
波琉太は寝ているので酸素マスクにして使いました。
濃度は、30〜39%で使うそうです。この1時間半後、波琉太は息を引き取りました。
あっぱれな生きようでした、あっぱれな逝きようでした。
結局、借りた翌日返却することになった酸素発生器です。
返却するとき配達員の方が、
「お力になれなくてすみませんでした」とおっしゃって下さいました。
何も事情は伝えていません、でも際してくださった言葉でした。
前日の16日は寒くて家の裏の畑の横でトイレだけしに朝の散歩。
早く帰りたい波琉太でした。
呼吸がしんどそうで、お腹の張りも気になりました。
晩ごはんになって初めて食べたくなさそうにしていました。
前々日の15日は口の中の炎症もあって、
疲れて寝てることが多かったです。
やはり寒い日で、家の前の道路をずっと西に行ったところに散歩に行きました。
それ以外は💩が少ないな、おならが少ないなと思ったくらいでした。
両日とも寒くて短時間ということもあって、写真は撮りませんでした。
今までいつも今日が命日になるかもと写真を撮ってきたのに、
2日間、家で写した顔の写真だけです。
この2日間、今から思えば調子をだいぶ崩していました。
だから、14日、日曜日のいつもの公園散歩、
波琉太の元気な顔の最後の散歩の写真です。
お耳ピーン。
波琉太はお日様が好きでした、ソーラーシステムの子だったから、
晴れの日の散歩は最高でした。
おやつだけしか見えてないように、
でもそんな姿も生きてればこそと、とても好ましく思ったものです。
エアーおやつで指を差し出すと、食べようとするという動画です。最後までこんなことして、遊んで過ごせました。
・戦いを終えて勇者は横たわりハルの休息心ゆくまで
・静かなりただ静かなりハルの息温さ消えてくこの空間は
・精一杯戦い抜きしハルの顔誇らしげなり横たわりても
・横たわるハルの真似する見つめては息止めてみる苦しくなるまで
・永遠に起き上がらずともそばにいてこれから誰に話しかければいい
私はこの真剣な波琉太の目を忘れない、
全部忘れない。
波琉太を応援してくださった皆様ありがとうございました。
頑張った波琉太をどうか褒めてやってください。
思い出してもらえることがあれば嬉しいです。
明日から残しておきたいことを書いていくつもりです。
タイトルも「短歌のかたちをした涙」に戻しました。
今、波琉太は私の隣に眠っています。
もう何もお世話することがなくなってしまったことが・・・
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その日6回目のけいれん発作を起こした時、呼吸を止めました。
11年と8か月と25日の生涯でした。
夜明け前に約2か月ぶりの発作を起こして、
なんとか午前の診察まで待てたのですが、
今までは寝ている時にしか起こらなかった発作を、
診察中にも起こしました。
もう鎮静の注射も効かないほどになっていたのだと、今はわかります。
肺炎の症状も見られ、以前より範囲が広がっていましたが、
肺炎の治療薬が脳炎のために使えないため、
自宅に酸素室を作る手配をして、家に戻ってきました。
家では昼ご飯、食欲がなかったものの、お薬を飲ませるため、
口にもっていくと、用意した全量を食べて、
その後は息子が来たこともあって起きて過ごしていました。
酸素発生器はすぐに届き、ケージをビニールで囲って部屋は作ったのですが、
波琉太は寝ているので酸素マスクにして使いました。
濃度は、30〜39%で使うそうです。この1時間半後、波琉太は息を引き取りました。
あっぱれな生きようでした、あっぱれな逝きようでした。
結局、借りた翌日返却することになった酸素発生器です。
返却するとき配達員の方が、
「お力になれなくてすみませんでした」とおっしゃって下さいました。
何も事情は伝えていません、でも際してくださった言葉でした。
前日の16日は寒くて家の裏の畑の横でトイレだけしに朝の散歩。
早く帰りたい波琉太でした。
呼吸がしんどそうで、お腹の張りも気になりました。
晩ごはんになって初めて食べたくなさそうにしていました。
前々日の15日は口の中の炎症もあって、
疲れて寝てることが多かったです。
やはり寒い日で、家の前の道路をずっと西に行ったところに散歩に行きました。
それ以外は💩が少ないな、おならが少ないなと思ったくらいでした。
両日とも寒くて短時間ということもあって、写真は撮りませんでした。
今までいつも今日が命日になるかもと写真を撮ってきたのに、
2日間、家で写した顔の写真だけです。
この2日間、今から思えば調子をだいぶ崩していました。
だから、14日、日曜日のいつもの公園散歩、
波琉太の元気な顔の最後の散歩の写真です。
お耳ピーン。
波琉太はお日様が好きでした、ソーラーシステムの子だったから、
晴れの日の散歩は最高でした。
おやつだけしか見えてないように、
でもそんな姿も生きてればこそと、とても好ましく思ったものです。
エアーおやつで指を差し出すと、食べようとするという動画です。最後までこんなことして、遊んで過ごせました。
・戦いを終えて勇者は横たわりハルの休息心ゆくまで
・静かなりただ静かなりハルの息温さ消えてくこの空間は
・精一杯戦い抜きしハルの顔誇らしげなり横たわりても
・横たわるハルの真似する見つめては息止めてみる苦しくなるまで
・永遠に起き上がらずともそばにいてこれから誰に話しかければいい
私はこの真剣な波琉太の目を忘れない、
全部忘れない。
波琉太を応援してくださった皆様ありがとうございました。
頑張った波琉太をどうか褒めてやってください。
思い出してもらえることがあれば嬉しいです。
明日から残しておきたいことを書いていくつもりです。
タイトルも「短歌のかたちをした涙」に戻しました。
今、波琉太は私の隣に眠っています。
もう何もお世話することがなくなってしまったことが・・・
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2012年07月04日
旅立ちの直後に思う その6
このいびき聞こえなければ君の死と
思った数日後に旅立つ
君を置き外出するを呵責して
心留める 亡くなってまだ
生活の9割君に捧げてた
つもりも終われば6割かなと
いつだって見えて触れる距離にいた
君だったのに はずだったのに
旅立ちの直後に思う その5
2012年06月05日
旅立ちの直後に思う その5
死に顔を直視続けたRくんは
死に遠き者闇を恐れる
犬亡くし哀れな女と
誰彼も思う気がして視線を逸らす
「不細工な顔になってる」
Rくんに言われ湧き出る涙をこらえ
思い出の詰まった体この心
消したら君を思い出せない
旅立ちの直後に思う その4
2012年04月29日
2012年03月31日
旅立ちの直後に思う その4
亡骸を遺骨を前にしてさえも
死を信じない心あさまし
決壊し君のママたるプライドが
保てなくなる死に触れないで
同情はいらない人の目の
キラキラ輝くさまを見てたい
砂を噛むような味など本当に
あるとわかった君をなくして
旅立ちの直後に思う その3
2012年03月05日
2012年02月28日
旅立ちの直後に思う その3
製造が君の生前 日付指す
ポテチ食べねば早く消さねば
君の死で昨日までしてきたことが
途絶えてしまう なぜとまた問う
弔いは生者のための儀式なり
救い求めぬ我は拒否する
もし心壊れるならばそれも良し
君の死からは目を逸らさない
旅立ちの直後に思う 旅立ちの直後に思う その2
2012年02月08日
あの朝何が起きたのか
2012年02月02日
眠りにつく前に その2
帰宅したRくん迎えに行きもせず
おいでと呼ぶも君は動かず
ベッドにも上がってこずに
アキレスもくわえず君はただに寝そべり
感動し目に焼き付けた愛し君
見納めの日もそうでない日も
残痕も形見も記憶も消えないと
世界は過載となるのであろう
2011年12月27日
送る その5
君送る2時間そばで見上げてる
揺らぐ空気の昇華のさまを
マットレス失禁の跡
しみ込んだ君の最後の生きた営み
箱の底家具の隙間をあさっては
お宝になる君のひげ探す
手を合わせR君ぽつり
アレックはホネックになりまたここにいる
2011年11月24日
送る その4
アキレスとささみを添えて送り出す
役目を終えた君の体を
シャワーでの入浴大丈夫なくらい
試しの春が君を見送る
あたたかい骨一片も残さずに
家に帰ろう君とわたしの
君の骨 布に包んでこっそりと
わたしの棺にきっと入れてよ
役目を終えた君の体を
シャワーでの入浴大丈夫なくらい
試しの春が君を見送る
あたたかい骨一片も残さずに
家に帰ろう君とわたしの
君の骨 布に包んでこっそりと
わたしの棺にきっと入れてよ
2011年10月31日
旅立つ その8
見開いた目は乾ききり
君の舌驚くばかり長くとび出し
泣くのではなくて悲鳴をあげ続け
動かぬ君の名を呼んでいる
生き終えてすべての機能停止して
君は誇れる体躯をさらす
悲しむと君が天国行けないと
君のお気にの先生は言う
2011年10月19日
あふれこぼれる
あの朝に時を戻して君のそば
行って絶対助けてみせる
「お母さんありがとうもう十分だ」
言ってる気がしたわたしが言わせた
一瞬で死に振り切った者がいて
わずかな望みつなげた者いる
君生きて生きて生きてほしかった
変でもなんでも生きてほしかった
2011年10月04日
旅立ちの直後に思う その2
地面から5センチ上を
人の脚借りたみたいにガクガク歩く
外界を帽子で遮断したわたし
ポンと車よ轢いておくれ
家中を片付け掃除して回る
君の不在に押しつぶされる
玄関を丁寧に掃きゴミ集め
思い出集め君の毛つまむ
2011年10月03日
旅立ちの直後に思う
あの時を目指して君は生まれきた
終わればなんとむなしいことよ
寒空の真夜中の道走り抜き
闇に輪郭溶けてしまいたい
体力のないわたしには一日中
君を泣くことさえもできない
出口ない君の話は明日から
わたし1人の胸の内秘め
2011年09月20日
送る その3
火葬する段取り終えて酔いつぶれ
君の手握り無常に沈む
向こう向き進む形で入れられる
君がわたしから旅立ってゆく
死のポーズ向こうを向いた君の頭
涙の中で揺れて動いた
君のためしてやれたこと一番は
わたしが先に逝かなかったこと
2011年08月26日
旅立つ その7
君の死は一つの大きなプロジェクト
突然 終り告げられたよう
若ければ獣医目指していただろう
無念無力の衝撃強く
君の死を生から分けた懸命の
蘇生料たった3000円とは
一番に大事にしてた君が今
一番遠いところへと行く
2011年08月15日
旅立つ その6
なきがらを横に普段の暮らしする
眠っているだけ明日が来るまで
この夜が最後になると君に触れ
君と一緒の布団に眠る
もう一度君抱き家中巡り行く
ここが住処よ永遠の場所
これからはささいな苦しみ一つにも
一人で耐えていかねばならない
2011年07月27日
旅立つ その5
挿管し電極脚につけられた
君の鼓動はもう打つこともなく
「苦しまず死ねたでしょうか?」問いかける
「一瞬の最後だったと思われます」
「軟口蓋、鼻腔手術もしたけれど
状態とても悪い子でした」
疾患と不幸な症状重なって
生涯一度のハートアタック
2011年07月19日
贖罪
悪い予感とらわれ続けた日々がある
わたしは君の死わかっていたのか
緩慢な死の徴候を見過ごした
わたしの罪は何で償う?
傷えぐり痛みを感じ続けねば
君の死報いることはできない
貝開き死ぬ瞬間を直視する
二度とあさりは買わないと決め
2011年07月13日
旅立つ その4
“突然死”名前をあえてつけるなら
脳か心臓異常起こした
「心臓に注射を打ってみましたが」
鼓動戻らず確認された死
心臓が止まれば死ぬとわかってる
止まった理由わたしは知りたい
ふやかしたボールのフード朝ごはん
食べる君なく冷たく残る
2011年07月04日
送る その2
君送る車見つけて花買いに
走ってくれたしんちゃんのパパ
チューリップ携え君にお別れを
“永遠の愛”花言葉添え
ミニチュアダックスママより
絶対に忘れはしない君のこと
涙のあの子手紙供える
小学生の女の子より
遺骨には
「愛犬フレンチブルドッグ オス三歳」と
数えで書かれ
2011年07月03日
送る
潔くひとりきれいに逝った君
寂しくなかった?怖くなかった?
人間の枠にはめるの違ってる
棺、読経はなしに裸で
君好きな坂がのぞめるこの場所で
苦しみ去って空に昇るよ
天国になんか行かずにここにいて
も一度君を守っていくから
2011年06月20日
旅立つ その3
思い出す今がするとき蘇生法
絶対わたし生き返らせる
わかってたもうだめなことそうだけど
残る体温まだだめじゃない
死ぬことは電灯スイッチ切るように
パチンと消えて闇となること
解剖をしてまでも君死んだ理由
事実真実つきとめたかった
2011年05月25日
旅立つ その2
ありがとねわたしのベッドの真ん中を
君はゴールに選んでくれた
抱っこして君の最後を看取ること
決めてた約束守れずごめん
わたしさえいたなら君は死なないと
傲慢だった不遜であった
犬らしく生きていられたギリギリの
時があのとき息絶えたとき
2011年05月24日
旅立つ
あちら向きいつものように振り返る
君はさよなら伝えていたの?
夜明け前いびきの音が聞こえない
アキレスそばに横たわる君
まだ暗い街を飛ばして病院へ
奇跡よ起これどうか助けて
奇跡とは未来に願うことでなく
後で気が付く幸運をいう